昭和54年12月30日 朝の御理解



 御理解 第6節
 「目には見えぬが、神の中を分けて通りおるようなものじゃ。畑で肥をかけておろうが、道を歩いておろうが、天地金乃神の広前は世界中であるぞ。」

 どんなに天地の親神様のお広前が世界中であると分からせて頂いても、それを私共の心で、その神様の働きを感じなかったら信心になりません。金光教の信心は、ただ拝んでおる参っておるだけではなくて、その神様を自分の心で感じる。言葉にははぁなるほど神様じゃなと言わなくても思わなくても、心の中に神様を生き生きと感じる。その生き生きと感じるということが、私は有り難いと言う事であり、いうならば真に神様をまぁ感じたときだと言う風に思います。
 昨日は敬親会で今年最後のお年寄りの、皆さんは本当にこの敬親会にかたって見える方達は、もう健康もう元気ですよね。今日の上瀧さんが九十。はぁあのうかくしゃくとして、娘よりも元気なんです。ご飯でんなんでん娘より余計頂くと言われるです。言われることもパシパシと言われる。それからあれは竹野さんところの、竹内さんところのお母さんが八十五歳、はぁまぁだ六十ぐらいにしか見えん。まぁだ艶々しちゃりますね。
 それから関さんところのお婆ちゃん、この頃また元気になられて非常に元気になられてね、がもう八十いくつでしょうかね。もう昨日はそういう年寄りの方達、中村さんがもう、八十二か三かでしょ来年は、まぁもう原さんやら、波多野さん当りがまぁ一番若いのですが、それでもやっぱり七十いくつですかね。昨日はもう時間が足りないくらいに、皆さんがもう本当に私はたまがりましたんですけれども、昨日ばかりはもうみんなが興奮状態で発表されました。
 本当に信心の何かにこう有り難いものに触れた時ですね、やはりあんなもう年寄りの方達でも、神様をもう言葉では、はぁなるほど神様じゃなぁと、言葉にはでらないけれども、その感動そのものが、神様をもう心でキャッチしておられるということだと私は思いました。けれども西岡先生が先生が休んでおられますから、いつもは先生の司会でやるんですけれども、今日は昨日は光昭が司会をしておりました。
 それで先日からの、十六日の報徳祭のお祭りの模様を、そして若先生が前講しておりますが、そして私の話しを聞き終わった時には、もうはぁとため息をつかれるくらいでした。皆さんもう一辺頂かれたいい。私も本当に有り難いと思いました。中には御大祭におかげを頂いておって、あの御大祭の模様を拝ましてもろうたけれども、こんなに有り難い、もうこんなにもう身近にあのビデオでしておりますから、あの有り難くなかったと言われるんです。
 本当にため息がでるように、なんかいわゆる有り難い。もう本当に今日はいろいろと分からせて頂きました、改めたようにして言われるんです。もうそしてそれが一人一人が、もう本当にその興奮状態で発表されるんです。もう一人二人とこられただけで、もう四時から研修生の発表がありますから、四時までずうっとおばぁちゃん達のお話ばかりで終わって、一人二人まぁ時間が足しませんでした。そういうことがです。
 私があのう神様を肌で感ずると言った様な事を申しますけれども、形の上におかげを頂いて神様を感じるじゃなくて、いうならば有り難いという一つの、その壷になってしまう。有り難いという感じの中に入ってしまう。いうなら神様の中に濃厚な神様の働きの中に没入してしまう。そして日頃はいやぁもう私は話しはいけませんし、信心はでけませんと言っていた人でも、今感動した有り難かった事から始まるんです。今日の本当にお説教はありがたかった。
 今日の話はもう私どんごたるもんでん、よう分かりましたと言った様な所から、話しが出て、家庭でおかげを受けておられる話しを皆さんされました。私はあぁいう情景に初めて触れましたが、あぁ昨日は北野から五、六人あっとりましたから、あぁこちらから北野に行かなん要件もありましたから、みんな北野の方達だけ送りました。それけん表までそこの手洗いの所まであのう送りましたら、あのう椛目の宮崎のおばぁちゃんと、それからここの合楽の何とかっていう、おばぁちゃん達二人みえるんですけれども。
 手を両方でこう握り合ってから、また来年どうでもおかげ頂きますっち言うちから、もう手を握りあって、その別れをまぁ惜しんでおられるというか、また一月後の敬心会に出てきましょうというて、そのそういう情景も私初めて触れました。今日はもう有り難かったですのぉやと言うものが、まだ続いている訳なんです。結局有り難いというものに触れなければね、言うならばどんなに神様が濃厚に私共の、いうなら世界中が広前それこそ神の中へ通りよるであっても、神様を感じきらなです。
 キャッチしきらないです。神の中を分けて通っておっても分からないです。神様を感じきらないです。何か特別なおかげを頂いたら、感じるという感じる神様では、私は本当の事じゃない。真実神の中を分けて通りよるような実感を持って、神様を頂けるその心は、やはり宗教的感動です。いうならば信心の喜びと驚きというものがなからなければ、その現にここに神様が居られても、それを居られる神は世と共にあり、神ありと言う様なものをキャッチすることはできません。
 だから先ず私共がね、形のお繰り合わせよりも、心のお繰り合わせを願え。そのお繰り合わせを頂いた有り難い心で朝参りをする、御理解をいわいる拝聴すると。そこから私は神様を感じる事が出来る。いわいるフィーリングです。そこを辿っていうならそのルートをたどっておかげも交流することになるのです。神の中を分けて通る理屈では分かっても、それをやはり心で肌で感じる程しの神様を頂かなければ、生き生きしたおかげに繋がらないですよね。
   どうぞ。